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ヨーロッパにおける陶磁の発達

陶磁はいつでも人々の生活の密接して存在してきた。時代・地域・人種・階級を問わずすべての人に共通する生活必需品である。その起源は人間の文明の誕生とほぼ同時期と言っても過言ではない。世界四大文明の発祥地のひとつメソポタミア地方とアナトリア地方は焼き物発祥の地でもある。最初は土を太陽のもとで乾燥させただけのもろいものだったが、やがて人類は火で焼くことによって耐久力のある土器が出来ることを知った。そうしてそれは生活の変化に伴って変化していった。「生活と生活用具は相関的なものであり、また生活観念をも反映している」(注1)のだ。誕生した土器は熱帯諸地域のように焼き物を必要としなかったごく一部の例外を除いて中国、インド、ロシア、地中海、ヨーロッパなど世界各地にその文化を広めた。ここでは特にヨーロッパに焦点を当ててその当時の変化を追ってみる。

 ギリシアのアテネではすでに紀元前8世紀には陶磁が産業として発達していた。しかし中国では更にさかのぼること紀元前2千年以上前の仰韶期に色鮮やかな彩陶や黒漆のように黒光りする美しい黒陶が誕生している。一方日本はというと、あの縄文式土器が誕生したのは今から七千年以上前と古いが、その技術の進歩は決して早いとは言えなかった。しかも紀元前5世紀頃に半島から伝わった技法に多大な影響を受けてやっと丈夫な土器へと発展を始めたのだ。アテネの一画、アッティカ地方のデュピュロン門の近く、糸杉の緑に囲まれた一帯はかつてケラメイコスと呼ばれた地区であった。ここはその昔コリント、デルフォイ、オリュンピアなどへ通じる道が扇状に広がる交通の要所であると同時に陶工や金細工師が集まる工人の町であったのだ。陶芸あるいは窯芸を総称する英語のセラミックス、ドイツ語のケラミックなどの語源は古代ギリシア語で陶工区を意味するこのケラメイコスに由来する(注2)。1871年にケラメイコス周辺の古代の墓地から典型的な幾何学様式の陶器が多数発見された。これは高さ1,5メートルの大きなアンフォラで、いわゆる「ディピュロンの壷」と呼ばれる。このアンフォラは器の表面前面をメアンデル、波状文、菱形文、鋸歯文、ジグザグ文などの硬直な連続文で覆い、胸部の中央に小さく、遺体を前に悲しむ人物像がシルエットで左右に配されていた。その大きさもさることながら、器形や幾何学様式の装飾、その数学的秩序から当時の窯業がどれほど高い水準であったかがよくわかる。それまでのギリシアの陶器はミケーネ文明の影響が顕著に表れた原幾何学様式のものばかりであった。そのため発見されたこのアンフォイは、ギリシア独自の文化がアテネを中心としたアッティカ地方に誕生したことを示している。ギリシアの植民地活動が活発化するとその地理的条件からコリントが東西貿易の中心的位置を占めるようになり、紀元前7世紀には本土における最大の貿易都市として栄えた。この背景からコリントでは窯業が盛んになり、アッティカの幾何学様式とは異なる装飾を発展させた。それはオリエント世界からもたらされたパルメット、ロータスなどの植物文、スフィンクス、グリュフォスなどの怪獣怪鳥、その他ヒョウやカモシカ、水鳥などを様式化したものである。コリント式の陶器は後に赤や白や紫などの多彩な色を添えて細部を線刻することによってその美的価値を高めた。そして比較的小さな壷が多いことから繊細優美で知られるようになったのだ。紀元前6世紀に再び活気を取り戻したアッティカでは黒絵式陶器を成立させた。黒絵式陶器とはその名の通り人物や動物その他の図像を黒で影絵風に描いたもので、髪や表情、衣装の模様など細部にいたるまで丁寧に表され、素地は赤褐色をしている。図像の主題も植物や動物などを主としたコリント式陶器とは異なってギリシア的な神話や英雄伝説などの一場面が描かれるようになった。例えば「フランソワのクラテル」という壷は水平の六層に分けられた頚部から高台にわたる器全面の装飾には、200人以上の人物と数十匹の動物が動きのある姿で描かれている。こうした「動」の登場は以前の幾何学様式や類似的な装飾に比べて陶器に生気を与えた。前530年頃、同じアテネにおいて黒絵式とまったく正反対の装飾技法が発明された。これは図像の部分を輪郭線で描き、素地を黒で塗りつぶし、暗い背景に図像を浮き出させる方法で、黒絵式に対して赤絵式と呼ばれる。この技法は黒絵式よりも更に生動的かつ自由となり、人物の性格や感情表現を可能とした。赤絵式と黒絵式ははじめ並行して用いられていた。初期にはひとつの陶器にその二つの技法が前面と後面に同時に用いられた例も少なくない。あるアンフォイには前面と後面に同じ絵が赤絵式と黒絵式で、「写真のネガとポジのように描かれている」(注3)。加えて香油入れであるレキュトスに白地のものが誕生し、その世紀の終わり頃には黒絵式や赤絵式に取って代わるようになっていった。この時代の陶器の装飾は一般に「自由様式」と呼ばれ、多くの白地レキュトスには簡潔で情趣に富んだ傑作が残された。ギリシア人はアンフォイやレキュトスといった容器だけでなく、人物や動物をかたどったテラ・コッタの小像でも多くの魅力的な作品を生んだ。その代表的なものはいわゆる「タナグラ人形」「ミュルナ人形」と呼ばれる優美な彩色の小像である。

前者は日常的な生活の一コマを表し、後者はアフロディーテやエロスといった神々の群像にその典型が見られる。小像は一般的に型を用いて成形される。まず粘土で原型を作り、それを前後の二つに分けて石膏の型をとり、この中に粘土を押し込んで成形するのだ。頭部、手足などの突出物や、付属品は別々にかたどられ、後で接合して完成した像を着色して窯に入れられる。焼成温度は比較的低温で、ひび割れないようゆっくり時間をかけて焼かれるためにこれらは軽くて割れやすい。また、人物や姿態に変化を与えるためしばしば頭部や腕の形、彩色を変えたので、型物とはいえ一点一点が異なっている。これが「すべてのタナグラの婦人像は姉妹であって双児ではない」(注4)といわれる所以だ。 像は普通成形を終え、石灰石を水で混ぜた泥漿で白く化粧がけを施し、その上に彩色して焼成される。前6世紀初期の小像はほとんど暗褐色や黒で描かれたが、前4世紀以降は白、黄、桃色、青、紫が主な顔料となった。一般に婦人像の素肌は白、髪は赤みを帯びた茶色、服は青や桃色が好んで使用された。

 中世の時代、ビザンツ帝国において陶器はギリシア・ローマ時代に比べて一般的に低く評価されていた。すでに良質の陶器が制作されていたにもかかわらず、宮廷や教会その他の支配者階級の食器類は金工品やガラス器が多かったのだ。それでも4世紀から6世紀頃のものとされる聖ペテロと聖パウロの印章を押型にした緑釉をかけた陶器も発見されている。8世紀から9世紀にかけてはイスラム陶器の発展に伴って帝国領内各地で施釉陶器が多数制作されるようになった。この時代の代表的な陶器は2種類ある。ひとつは白地色絵陶器と、もうひとつはスグラフィアートである。前者はマケドニア朝下でローマ時代の押型による浮き彫り装飾の陶器と並行して著しく発展した。まず白い素地の上に直接彩色され、その後器全体に透明な釉がかけられる。そしてこれらには成形を終えた後外側に平たく花弁型にかたどった陶土を張りつけ、内側には型取りによる浮彫りの装飾が施されるのだ。白地色絵陶器は9世紀以降急速に発展し、皿、碗、杯、ジャグあるいは教会の壁面を飾った陶板など多種の器物に及んだ。その装飾のモチーフにはキリスト教の十字文をはじめ葡萄唐草、薔薇文、鱗文、飾紐文などの模様の他ワシ、ハト、魚、ヒョウ、グロフィン、ヤギ、イヌなど鳥獣を描いたものも少なくない。これらのモチーフは白い素地とは対照的に黒もしくは濃い褐色で輪郭をとり、その内側を黄、青、緑、赤で絵付けしてある。この方法は主題に力強さと生気を与えた。一般の日用品としては白地陶器に黄もしくは緑釉を施した無装飾のものが用いられた。一方、スグラフィアート(掻落とし)の技法や様式はその源流が中国陶器に見られるため、おそらく中国からイスラムを通って伝播したと考えられる。中国では唐の時代にその技法が使われた。白い胎に黒釉をかけたあと、その釉面を箆先で削って焼いたのである。掻落としとしてはまだ初歩的ではあるが、「かけた黒釉をはいで白線を現出させた工夫はひとつに進歩」(注5)であった。ビザンツでは赤土を白いスリップで化粧がけをしてその上に淡黄色や褐色の鉛釉を施し、しばしばスグラフィアート装飾が施された。11世紀頃からはイスラム陶器の影響を強く受け、黄みを帯びた釉を好み、素地に鋭い尖筆のようなもので図柄を釘彫りしたり、掻落とす技法を発展させた。陶磁の様々な技法が西ヨーロッパに伝わったのは中世の後半になってからである。イギリスでは陶器は、釉は鉛釉で、淡黄色もしくは緑色に発色した釉は鉛釉に銅粉を混ぜて九百度から千度の酸化炎で焼成された。装飾は陰刻、浮彫りも多く、図柄は草花文、紋章、斑点、櫛目文、鱗文その他人物や動物など驚くほど多用である。スペインではラスター彩という焼成の技法が発達した。これは素焼きした白い釉薬をかけて焼成し、その上に硫化銅や硫化銀、金を粉末にして黄土と混ぜた泥土で絵付けをして比較的低火度の還元焔で焼くものだ。この場合金属の配合、窯の温度などの理由による失敗の確率はきわめて高い。この技法は古くは紀元前のエジプトのガラス器の装飾に用いられ、イスラム世界の発展とともに広がった。スペインで製作されるようになった正確な年代はわからないが、おそらくは13世紀はじめにスペインに移住してきたイスラム教徒の陶工達によって作られ、広まったという。

 ヨーロッパの以前の陶磁は庶民が日常的に使用する容器が中心であった。しかし近世に入ると宮廷などでその価値が見なおされるようになった。その代表的のものがフランス王立セーブル製陶所である。その前身のヴァンサンヌ窯は当時の国王ルイ15世とその寵姫であり愛陶家でもあるポンパドゥール夫人の援助を受けて釉薬を研究、1749年に有名な「王の青」、52年にはセーブル窯を代表する「トルコ青」の焼成に成功した。他の国々でも陶磁は目覚しい発展を続け、16世紀頃から次々に各地で新しい窯が誕生し始めた。そして国王や有力者などの庇護を受け、微妙な色合いや焼き加減などを生み出してすばらしい作品を作りつづけた。それが現在でも残り、陶磁器類のブランドとなっている。デンマークのロイヤルコペンハーゲン、ドイツのマイセン、オーストリアのアウガルデン、ハンガリーのヘレンド、イタリアのリチャード・ジノリ、イギリスのウェッジウッドなどはほんの一部にすぎない。そしてこれらの多くが王室御用達という名誉のもと数百年に渡りその地位を保っている。かつて生活必需品として生まれた陶磁はその発展にしたがって次第に観賞という意図を加えて様々な種類の陶磁を作り出した。しかしとどまるところを知らず、これからも変化していくことだろう。

(注1)『日本の工芸9 陶磁』 P173 L12
(注2)『西洋陶磁物語』 P17 L15
(注3)  同上    P26 L15
(注4)  同上    P38 L17時
(注5)『中国陶磁史』 P101 L16

<参考文献>
 大佛次郎 他  『日本の工芸9 陶磁』  淡交社
 佐藤雅彦    『中国陶磁史』      平凡社
 前田正明    『西洋陶磁物語』     講談社

 日本テレビ編  『カップとスプーン ベストセレクション』


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